住宅特集 2022年 6月号
特集/これからのシェア 家がまちを育てる
住まいという空間をどのように活用するのか、その考え方はだんだんと変化している。戸建て住宅に住み、孤立の快適さを選んできた日本人が再度、人と関わる楽しみを住まいの中に見つけ出そうとしているのだ。その転換期にある今、私は、明るくて開放感のある空間だけでは、閉じこもることを当たり前としてきた日本人が求める新たな空間にはならないと考える。まちをどう巻き込み、どのような役割を与えるのか、そしてそれをどうデザインするのか、多くの建築家がそれぞれの手法で、その正解を探している時期にあると思う。
「神社住宅 おすずのひも」は、忘れられていたかつての居場所を、シェアの場として再構築している。ビルと神社の間にランダムに並ぶ屋根の住宅がそのギャップを埋めるように建ち、逆に道路側には樹木を生かして大きく開くことで、陰に埋もれていた神社の存在を思い出させる。さらに、神社を住宅の一部として景色を共有するように空けられた窓や鳥居の下を通る屋根が、自然との一体感を作り出し、都心にいることを一瞬忘れさせる。人がその場に集まり活動を共にするのとは違い、神社を参拝する、自然を感じるといった体験をシェアするという点が、ほかの建築とは違う力を持っているように感じた。
「静原村の家」と「噺館」の二つの事例は、シェアをその建築内で留めず、まちの中にも交流を生み出そうとする意識が外観や空間づくりに現れている。
まず、京都市北部の集落で何度も改修がなされる「静原村の家」。空き家の外観を保存しながらも、近代的な美しい水平窓が開く。それらが混ざり合う美しい外観を見ていると、事務所の窓から見える模型に子供たちが集まる様子や訪れたゲストと集落の住民の関係がだんだんと深まっていく様子などの楽しい光景が容易に想像できる。改修によって生まれた隙間を活用することで、意識的にシェアの場を作り出すのではなく、周辺地域の活動や人々と建築が混ざり合っていく関係を作り出していると感じた。今後も宿泊施設が作られるようで、都市と集落を巻き込んだ混ざり合いの空間が生まれることを期待したい。
次に「噺館」は、二階の静的な「土の空間」から街並みや遠くの山並みを見ることで、ゲストがまちに足を運ぶきっかけを作っている。その結果、住民の日常にゲストが入り込み、新たな価値を生むはずだ。その効果を強めているのが、南北に空く小さな窓とデスクと同じレベルで伸びるデッキだと思う。入り込むそよ風やデスクに上って外に出るような動線が外部(まち)への興味を沸かせ、まちにシェアが飛び出していくように感じた。
最後に「R1139 径の家」のコンクリート打放しの外観を見たときは驚いた。なぜなら、まちを豊かにするシェア建築と聞くと窓が大きく開き、半屋外となるようで明るく、木のぬくもりを感じられるような空間を勝手に想像してしまっていたからだ。シェアとは真逆の人を突き放すような冷たさを感じる。しかし、不安定さのあるスラブが外部とのギャップを作り出し、異世界に迷い込んだような高揚感と浮遊感がある。そこを貫く吹き抜けを通して、見知らぬ人が絡み合う共有空間が生まれるのではないか。だが、その楽しさを外から感じ取ることは難しい。これが、シェアを生む空間といえるのかどうかは、意見が分かれるだろう。
学部4年 清家直音
新建築 2022年 6月号
建築をつくることは、世界の中に自らの空間を生み出すことでもある。どこかに建築を建てた途端、それまではひと繋がりであった場所に建築によって内包された「内部空間」が生まれ、その外側には必ず「外部空間」がつくられる。言われてみれば当たり前だが、建築について考える我々はこの事実をしっかりと認識する必要があるだろう。
「禅坊靖寧」は座禅道場としてつくられた。座禅とは姿勢を正して座り、精神を統一させることで自分と向き合う修行方法だ。では座禅を組むのに適した空間とはどんな空間か。この問いを自然と建築の位置関係によって鮮やかに解いた。建物が建つ前、地面から眺めた本敷地の斜面はきっとただの雑木林に過ぎなかった。しかし宙に浮かぶ建築から見下ろすと、木々たちは爽快で非日常的な空間を演出する。のびのびと広がる自然を見下ろし、日常的風景から解放された時、そこにぽつんと残された自分自身をはっきりと自覚することができるだろう。
更に構造に工夫を凝らして筋交や大梁を無くしているため、周囲を囲う緑に対して建築が邪魔をすることがない。そうして生まれたどこまでも続いていくような空間の連続性や抜けが人々に日常生活を忘れさせる。内部空間に留まらずそこから外部空間をどう感じるか、また内部と外部、はたまた建築と自然の位置関係をどう定めるかについて繊細に検討されている。
「上野東照宮神符静心所」では御神木を正面に切り取る風景の魅せ方にただならぬ拘りを感じる。反対側をやじろべいのように引っ張ることで柱が一切落ちない仕様となっており、来訪者は何にも邪魔されることなく御神木と対峙する。そして視線を御神木へと誘導するように下向きに傾斜する軒先は更なる瞑想や祈りを導くはずだ。イチョウの葉を模したというヴォールト屋根は意匠として少々派手な気もするが、俯瞰で見ると屋根の深い傾斜が建築全体の圧迫感を緩和しているし、防火樹として長年社殿を守ってきた大イチョウを本建築の要となる屋根の材として活用した点はストーリーとして美しい。
近頃の建築界では「境界を曖昧に」というワードを幾度となく目にする。今まで閉じていた内部空間を外部に開き、その境界を曖昧にすることで生まれる効果への注目が高まっているのだ。しかし、曖昧にするばかりでいいのだろうか。そもそも建築をつくるということは、そこに内部と外部の境界をつくるということなのだから、「この建築によってここより内を内部、ここから外を外部とすることの意味」への真っすぐな追求も忘れてはならない。
学部4年 大橋 萌子